2016年2月28日日曜日

何かを所有するということ

 
以前MAKEのサイトでKyle Wiens氏が書いた自分で直す権利:本当の意味で物を所有する権利のための戦い」を読んで感銘を受けたことがあります。私は氏の主張にまったく同意であります。
上記の寄稿を読んで以来、たまに「"何かを所有する"というのはどういうことなのか」をあてもなく考えたりすることがあります。
この週末このことに関して気づきというか、アナロジーというか、そんなものを感じましたので投稿してみたいと思います。

この週末は土日続けてオーケストラのコンサートに行きました。
土曜日はみなとみらいホールで行われたリコーフィルハーモニーオーケストラが演奏するマーラーの交響曲第六番、そして日曜日はミューザ川崎で行われたマーラー祝祭オーケストラが演奏するやはりマーラーの交響曲第八番です。
どちらの曲も大曲、難曲であり、プロでもおいそれと演奏できるようなものではありません。特に八番は通称「千人の交響曲」と呼ばれるもので、フルに演奏家を集めると1000人を超えるというとんでもない曲です。祝祭オケの演奏も1000人とはいきませんでしたが、その半分近くはいたと思います。男声コーラス、女声コーラスx2、少年少女コーラス、独唱8人、五管編成のフルオーケストラに、ハープ二台、マンドリン、ピアノ、チェレスタ、さらにパイプオルガンまで使うというものすごいもので、演奏時間は2時間に迫ります。
六番は八番には及ばないものの、やはり五管編成、たくさんのカウベルとチューブラベル、大きく振り上げて木箱に叩きつけるハンマー、それに通常は一つしか使わないシンバルを3人で同時に鳴らすところがあるなど、やはりとんでもない曲です。これをアマチュアオーケストラがやったのです。

なんでオケの話をくどくどしているのかというと、曲作りとモノ作りに似ているところがとても多いと感じ、そしてアマチュア音楽家も私のようなモノ作りを趣味とする者も、作ることを通じて曲なりモノなりをより深いレベルで理解し、所有しようとしているんじゃないかと感じたからです。

私が考える「何かを所有する」という行為は、Wiens氏の主張するところの「モノそのものに加えて、それを修理、改造を始め、いわばなんでもする権利を所有する」ことに似ていますが、さらにそれらの行為を通じてそのモノを「完全に理解している」という状態に近いと考えています。
モノを完全に理解するということは、そのモノがどうやって動いているのかという原理を知ることはもとより、何で出来ているのか、さらに何故それで作られているのか、なぜある部分は金属で、しかもアルミで、なぜ1mmでも3mmでもなく2mmの厚さで作られているのか、なぜ穴が4か所ではなく3か所なのか、なぜ穴はその位置なのか、5mm左ではなぜダメなのか、などなどを理解するということです。言い換えれば、そのモノを考え出した者、設計した者と時を隔てて対話し、その考えを理解するということと言えるのではないかと思うのです。
今さら言うまでもなく、私たちの周りにあるほとんどのモノは誰かが作っています。決して木になっているモノを山から採ってきたり、地面に埋まっていたモノを掘り出したりはしていないのです。身の回りのどんなつまらないモノも誰かが設計し、誰かが作っているのです。

話は大きくそれますが、誰かが設計し、誰かが作っているということをよく思うのは、通勤途中に鶴見川にかかる橋を歩いて渡るときです。
私は橋フェチではないので、橋そのものにも、それを構成する部品にも何の興味もありません。が、その部品を設計しなければいけなくなったら自分はどう考えるだろうか、ということには興味があります。
そういう気持ちで改めて橋に取り付けられている部品を見ると、なぜこのサイズなのか、なぜここで二つに分けられているのか、なぜこの部分は溶接なのに、別の部分はボルト止めなのだろうか、と次々に疑問が湧いてきます。
そして、毎日渡りながら見ているとある日気がつくのです。
「そうか、これはこの部分までを工場で作って、こことここを現場でつないだからこの構造になっているのだ、トラックで運ぼうと思うとこれ以上の長さにすることは運搬効率を下げるのだ、そしてこの部分がボルト止めになっているのはここを溶接してしまうと施工の時に内側に配線を通すことができないからだ」と。
もちろんこれらの気づきは私の間違いであることも多いと思います。しかしこういったことを考えることによってまったく興味のない橋の部品についてもその一部を理解し、所有したような気になるのです。所有といういい方は適切ではないかもしれませんが、うまい言葉が見つかりません。征服した?自分のものにした?あるいは仲間にしたような気分という感じでしょうか。この部品の設計者とはうまい酒が飲めそうだ、といった感じですかね。私はお酒を飲みませんが(笑
このように「モノを理解する」ということも所有のひとつの形態ではないかという気がします。
そして言うまでもなく、モノを完全に理解する一つの理想的な形は「自分で作ってみる」ことだと思います。それもできるだけ元に近いところから。
元に近いというのはなかなか難しいですが、私なりの考えは次のようなものです。

私はここまで書いたような意味で自分で作ったレーザ加工機を「所有」していると考えています。もちろん、すべてをゼロから作ったわけではありません。が、かなりの部分を「元に近いところ」から作っているつもりです。元に近いというのは「単体部品の機能からではその集合体の機能を想像し得ないもの」という表現に近いかな。
例えば、レーザ加工機には既製品のリニアブッシュを使っています。私はリニアブッシュがどのような構造でどうやって機能を発揮しているかを理解していますが、レーザ加工機に使っているリニアブッシュは単に買ってきただけでなんの手も加えずに取り付けています。しかしこの時考えるべきは、リニアブッシュの機能である「シャフトと摩擦少なく相対移動する」という機能はレーザ加工機を実現するための一手段ではあっても主たる機能である「レーザ光で加工を施す」とは直接の関係が無いということです。そして、リニアブッシュと同じカテゴリーにステッピングモータや駆動回路などが入ると思っています。
また、さらに下層のカテゴリには筐体を構成しているMDFの板などが入るでしょう。MDFの板は定尺で買ってきたときはそれこそレーザ加工機とはまったく関係がありません。これを恣意的にあるサイズに切り、ある面とある面をつなぎ合わせて筐体にしたのは私の考えであり、設計です。
「ではレーザ管はどうなんだ」と思われるかもしれません。確かにレーザ管はレーザ加工機の機能の主たる部分を担っていながら、私はこれを中国から買って取り付けただけです。しかしながら、私はCO2レーザがどのような原理で発生しているかを知っており、少なくとも過去レーザ管を実際に作って弱いながらもレーザ発振を実際にこの手で行いました。今のレーザ加工機に既製品のレーザ管を使っているのは自作のレーザ管を使うことにかかわる手間の問題であり、本質的な問題ではないと思っているのです。
こういった意味で、私は私のレーザ加工機を真に所有していると考えています。

随分と遠回りしましたが、この週末の思いに話を戻します。
マーラーの大曲を演奏することはアマチュアオケにとっては大きな挑戦です。個人の演奏技能は高いものが求められ、アンサンブルは精緻を極めます。下手したら途中で演奏が止まってしまうでしょう。
そんな曲を練習時間もままならない企業オケや、プロもいるとはいいながら実態はアマチュア主体の有志連合であるようなオケが演奏しようとするのは、彼らがその曲が大好きで、なんとかその曲を深く理解してもっともっと自分のものにしたいからではないかと思えるのです。
そして、その最も良い方法が「自分で演奏してみる」ことだったのだと。マーラー祝祭オーケストラなんて、まさに「マーラーの曲を演奏したい者の集まり」という非常にわかりやすいオケです。

私はアマチュアオケの演奏を聴くのが好きです。学生オケとか特に好きです。もちろんプロに比べると演奏の出来は全然です。が、それを補って余りあるような「この曲がすきなんじゃあ」という叫びが聞こえるような気がするのです。
そして、この感じって、MFTの会場で感じるあの感覚と同じなことにこの週末気がついたのです。

アマチュアオケがマーラーの大曲を演奏するという行為は、無理やりいえば素人が高精度なNC旋盤をつくる行為に似ているかもしれません。どちらもかなり無謀であり、プロのような出来にならないことは明らかです。
例えば、私のような趣味レベルの者が本格的な工作機械を作ろうとしてもその精度は知れています。格好はそれっぽいかもしれませんが、いわゆる「ちゃんとしたモノ」になることは期待できません。
アマチュアオケの演奏もまさにそんな感じです。音程が怪しかったり、音を外したり、何よりも縦の線(発音タイミング的なもの)があってないためになんか全体がごちゃっとした響きになるのです。プロのうまいオケは少ない人数で演奏しているように聞こえます。全体がすっきりしています。プロに比べてアマチュアオケは演奏の精度が低いのです。
しかし一方で演奏している本人たちは非常に楽しそうです。聴いている私も楽しいです。これは何故なんだろうと考えて導き出した結論がMFTの「あの感じ」でした。

大好きな曲を自分の手を使って演奏することで彼らは間違いなくその曲を理解し、聴いているだけとは違う一段深いレベルで自分のものにし、所有しているのだと思います。そしてその所有の喜びが演奏の時に現れるからこそ、あんなにも楽しそうであり、聴いている私も楽しい気持ちになれるのです。
練習を通じて一生懸命に楽譜を読み、作曲者の意図を考え、読み解き、表現しようとして頑張ったのです。何故この音なのか、なぜこのメロディはクラリネットからオーボエに引き継がれるのか、なぜここはアルコではなくピチカートなのか、なぜなのか、なぜなのか。この過程を通じて、演奏者は曲の設計者である作曲家と時を隔てて会話していると思うのです。そして苦労の果てに、演奏者はこの曲を解釈し、改造し、修理し、理解する自由を獲得し、深いレベルで自分のものにする、すなわち所有するに至っているのです。

この作業って、曲作りもモノ作りも同じだと思います。さらに言えばモノの分解行為も同じかもしれません。
そしてそう思うと、何故私がアマチュアオケの演奏を聴くのが好きなのかがわかったような気がするのです。どこか共感できるところがあるんですね。

アマチュアオケに高精度な演奏などそもそも求めていません。
アマチュアオケのコンサートはMFTと同じです。「これ自分で作ったんだぜすごいだろう」「自分で作ったんか、確かにこれはすごいなあ」というやり取りなのです。
高精度な演奏を求めるならプロのコンサートに行くなりCD買うなりすればよいのです。

なんか自分一人で勝手に納得した週末でした。


2 件のコメント:

  1. 返信
    1. Kmasa laboratoryさんどうもです
      哲学なんて高尚なものではなく、単にめんどくさい性格というやつでしょう(笑
      でも、いろんなもの分解していて感じることありませんか「こいつ設計へたくそやな」とか「種類の違うねじ大杉」とか。
      人に分解されても恥ずかしくないモノ作りをしたいものです(笑
      ありがとうございました。

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